過ぎてしまった、6月18日

第2次世界大戦末期の
1945(昭和20)年6月18日に『浜松大空襲』がありました。


  浜松市は、戦前から航空隊の根拠地であり、
  また軍需物資の生産都市であったので、
  27回に及ぶ爆弾、焼夷弾、機銃掃射、艦砲射撃の攻撃を受け、
  著名な公共建築物や公共施設、商店、住宅、工場の大部分は焼失または倒壊した。
  その罹災面積は旧市内で6.90㎢、罹災戸数3万1,000戸、罹災人口12万人に及んでおり、
  このように浜松市が全国的にみて大都市並みの被害を受けた理由には、
  航空機関係の軍施設、工場が多かったことのほかに米軍の本土侵入経路の目標に
  本市が存在したことも考えられている。大空襲の後、戦災で家を失った者、
  疎開先を求めて移住する者で浜松市の人口は、昭和19年当時の18万7,433人が
  昭和20年には8万1,437人に急減したのである。(「浜松市戦災復興誌」により)

総務省 浜松市における戦災の状況(静岡)
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_03.html

戦後69年が経過し、先の大戦における痛ましい戦災の記憶が、
次第に風化しつつあると言われています。


戦争のお話の “語り手” から、 知り合いの古典文学の “語り手” へ。
さらに、私へ語ってくださいました。


戦争のお話の語り手は、80歳近い方。
当時、2つの防空壕があって、片方には水が膝まであり
皆、水溜まりのない方に集まったそうです。
その語り手の親子は、何か “虫の知らせ” というか・・・・
水たまりの防空壕を選んで 潜り込んだそうです。
その直後、爆弾の投下で火の海。
語り手の親子は水溜まりの水をかぶり何とか事なきを得たそうです。
もう一方の防空壕の方は、どうにもならず、
同級生の家族も含め、全滅してしまったそうです。

このような、一瞬の判断で生死を分けて、
戦後を逞しく生きてきた先輩によって語り継がれていきます。

さらに、話は続きました。

浜松は米軍には「爆弾のゴミ捨て場」と呼ばれていたというぐらい、
集束焼夷弾、250キロ爆弾、空母艦載機による低空からの機銃掃射、
戦艦群による沖合からの艦砲射撃、巨大に4トン半もある模擬原子爆弾と
ありとあらゆる攻撃を受けたそうです。

  昨年には、JR東海浜松工場で発見された不発弾を
  陸上自衛隊によって遠州灘海岸へ運び、爆破さました。
  私の住んでいる地域も、運んでいる間の避難勧告が2回続けて出ました。
  ・・・・不発弾が多いのもそのせいですね。



新潟長岡でも。
数年前に、新潟の長岡のクライアント様のご好意で、
『長岡まつり』の『大花火大会』を特等席で見せていただきました。
尺玉の打ち上げで 地響きを感じ、
ただ、「すごい! すごい! 山下 清 絵の世界だ!」と楽しんでいました。

この花火大会は、
69年前の長岡空襲の始まった時刻(8月1日午後10時30分)にあわせて
慰霊の花火を打ち上げます。
空襲で亡くなられた方々への慰霊、
復興に尽力した先人への感謝、
恒久平和への願いを込めて、
尺玉を打ち上げるとともに、同時刻に慰霊の鐘を鳴らします。

大林宣彦督監 映画作品「この空の花 長岡花火物語」でも
B29の空襲で焼かれた1945年8月1日を忘れないという “意志” が表現されています。

日常にある本来の、慰霊、復興の感謝、恒久平和への願い に、
意味を忘れ、通り過ぎていたことに
今更ながら、情けない・・・


空襲の事実を知っていくことが、
戦災で犠牲となった多くの人々の追悼と、
日本の恒久的平和につながるものだと考えます。

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